ハンコを作ってもらった

技術記事ではない。

私に何か特別なことがあったのだと思った人もいるだろう。おそらく99%の人々にとって、普通の三文判は作ってもらうものではなく、単にハンコ屋の店先にあるあの回転するハンコ棚に入っているものを引き抜いて買うものだからだ。あのハンコ棚が三文判を売る場面以外で使われているのを見たことがない割に、どのはんこ屋に行っても似たようなものが使われている。ハンコ屋のためだけに生産されている商品ということだろうか? ということはペーパーレス化して印判屋が倒産するとき、あの棚を作っている工場も打撃を食らうということだ。流石にあれしか作っていないということはあるまいが、少しはダメージが入るかもしれない。社会構造が変わると普段意識しないところにも波紋は広がっていくものだ。

なんだっけ。ハンコを作ってもらったのだった。とはいえ別に何か記念すべきことがあったとかではない。私の名字は非常に珍しいもので(GitHubを実名でやっている以上バレバレだが)、ハンコ屋で自分の名前を見つけたことはない。なので、ごく簡単な、それこそ100円のオーダーで買えるような三文判を買うにも、少なくとも街のハンコ屋に行った場合は3~5倍程度の金額を払って掘ってもらわないといけない。私の名字のハンコを大量生産しても、買うのは私と父方親族のせいぜい10〜20人程度だけなので全く経済的合理性がないからだ。特注品は手間がかかるので価格が上がる。資本主義が憎い。

そういうわけで、私は高校を出るときに作った一本の三文判を後生大事に抱えて生きてきたわけだが、やはりその一本だけだと不便を感じることはしばしばある。というわけで街のハンコ屋に行ってごく普通のハンコを作ってもらった。5倍の値段を支払って一週間(普通の人は約1分で棚から自分の名字のハンコを見つけるだろうことから考えると、10000倍の時間的コストがかかっていることになる(これは実際には誇張だ。ハンコができるまでの1週間の間、別に拘束されていたわけではないからだ))待って、普通のハンコを手に入れた。待っている間、私のような人が割を食わず、ハンコ業界も崩壊しないウルトラC的アイデアが出ないものかと考えていた。

まず、ハンコをなくすとハンコ業界が崩壊するし、本邦の紙文化の慣性は大きく、すぐに止められるようなものではないため、ハンコは残しつつその利便性を高めるかたちにしてみよう。そこで万能鍵ならぬ万能ハンコのようなものを考えてみたい。本人の意思表示としての意味がない、とのご意見が来そうだが、通常の三文判はそれこそ(経済的合理性のある名字の人は)ピャッと出かけてパッと買える本人確認的意義のない代物なので、万能ハンコはそのようなものを代替するためのハンコであるとする。また、銀行印や実印はそもそも個人に唯一無二のものでなければならないので、これは万人が必ず掘ってもらわなければならないはずだ。このようなものは今回の対象外とする。

万能ハンコはどのようなものになるだろうか。みなさんは、ぎっしり詰まった爪楊枝入れの爪楊枝を全部ちょっと出して、一部を凹ませたりして遊んだことがあると思う。あれを自動化することを考えてみる。十分に細い棒が十分な量入っていれば、ハンコは適切な解像度で古印体のフォントを作り出せるはずだ。これで、理論上誰のハンコでもその場で生成できる。このアイデアは、既にある程度以上普及している3Dプリンタを用いた使い捨てハンコというアイデアと比較したとき、利用者ごとに同じ資源を再利用できるという利点がある。エコでサステイナブルで地球にやさしいアイデアではないか。このようなハンコが至るところに置いてあれば、三文判の問題はほとんど解決する。また、これをIoTで繋いでおいて遠隔自動押印サービスのようなこともいずれは可能になるだろう。未来だ。

では万能ハンコに関する、技術とコスト、あとはハンコの持つ社会的文脈の問題を片付けていこう。

まず技術とコストの問題だが、あのサイズの三文判にそこまでの解像度で棒を敷き詰めて制御するのは面倒だしおそらくコスト的にも大変だ。メンテナンス性も悪そうだ。そこで印影の方を改善できないか考えてみたい。三文判に書かれているのは要するに文字なので、世界中の文字のスーパーセットとなることを目指しているUnicodeには通常既に収録されているはずだ。なので、名字をUTF-8か16でエンコードし、8x8程度のサイズのチェッカーボードの中にビットパターンとして埋め込むことを考える。このようにすれば、8x8でも8バイト使えるので多くの名字はこの範囲に収まるし(必要なら小判型にして8x16にしてもよい)、フォントそのものを再現するよりも低解像度で名字が表現可能になる。問題は人が読めないことだが。人が読めないといけないなら、二次元バーコードよろしく解読用アプリを作成するか、もっと単純にQRコードを出力するようにすればよい。必要解像度は上がるだろうけれど、十分に人口に膾炙しているので利便性は高いだろう。

続いて社会的な文脈の方の問題がある。なんだかワヤワヤになっていた気もするが、押印は本人確認としての意味を持っているということになっていた気がしなくもないので、万能ハンコ登場後でもそのような意義を持たせられないか考えてみる。

まず、万能ハンコは自動でその印影を調節することになるため、そのための入力機構を持っているはずである。ハンコ自体に文字入力システムを導入するのがダルそうなのは自明だ。既存の文字入力システムはハンコのサイズに比べるとどれも大きい。携帯のボタン、スマホの画面、キーボードなどをハンコの形状の中に閉じ込めるのは難しい。となると入力は外部機器にまかせて、ネットワーク越しに操るのが便利だろう。そうすれば入出力は最低限でよくなる。ハンコの尻の部分にWiFiのステータスと現在生成中の文字を表示する小さな画面と、横に最低限度のボタン、それからUSB type-Cあたりをつけておけばよい。IoT万能ハンコだ。次は音声アシスタントを付けよう。「スタンプ、朱肉つけといて」「インクカートリッジを交換してください」。

ここまで来たら、ハンコを押す際に持つ腹の部分に指紋認証を付けることを思いつくまであと一歩だ。こうすれば、たしかにその人が押したということがわかる。先に印判ネットワークサービスにアカウントを作っておけば、出先で急にハンコを押す際にもハンコを握るだけで自分の印影が生成される。フォールバックとして、外部機器に接続することでアカウント名とパスワードによるログインも可能にしておくことにする。ハンコを押すたびにポイントが溜まって、オトクなサービスを受けることができる。電子マネーとしても使えるので無人レジでハンコを押す人が続出する。ご自宅で指紋認証の登録をするのは難しいだろうから、全国に万能ハンコサービス店舗ができることは必然だ。そこに行けば、印判ネットワークサービスへのアカウント登録・管理などのカスタマーサービス、持っている万能ハンコの買い替えや修理、実印や銀行印の制作が依頼でき、サービスプランの変更などができる。今も携帯電話会社が多くの店舗を作っているので、それと同程度の間隔で店舗を配置することになるだろう。おっと、これは現在のハンコ屋の分布とそう大きくは変わらないのではないか? そう、これによってハンコ屋の雇用問題と店舗の敷地問題も解決する。ハンコ屋には今までと同様のハンコの制作・販売の他に、万能IoTハンコの販売とカスタマーサービス窓口としての新たな価値を提供してもらうのだ。

というわけで、ハンコ屋が結託して指紋認証IoT万能三文判を制作して標準化し、そのアカウント管理とプランの管理を行うことによって、ハンコ屋の雇用はなくならず、我々の社会が実印や銀行印を掘る職人と技術を失うこともない。これはいい案ではないか、と思って「指紋認証IoT万能ハンコとそのためのシステムインフラを作って一発当てようぜ」と話していたら(いつも意味わからんことを言って申し訳ない)、「指紋認証ハンコって……拇印じゃないですか」と言われた。そうかもな。ハンコ屋に指紋情報取られることになるし(当然個人情報保護契約はされるだろうが、そのような社会においては国家権力に対しておそらく特例バックドアが与えられるだろう)。一方ソ連は鉛筆を使った。ところで宇宙船内で鉛筆を使うのは空気の汚染とか機器への影響とかで微妙らしいと聞いたことがあるけど一次情報に当たったことがないからよくわからないです。今度宇宙に行くことがあったら聞いてみよう。まあ今は解決してるとかの可能性はあるけど。

今後書類に拇印を押してるやつがいたら、「ああ珍しい名字を持って苦労しているんだな」と思ってください。