順列都市 再々再読

注:ネタバレを避けようという気持ちは全くありません。むしろ根本的なアイデアを解説してさえいる

順列都市』を最初に読んだのは確か中学三年生か高校一年生の頃で、当時は塵理論のアイデアを今にして思えば何一つ理解できていなかったし、主人公ダラムが行った実験に関しても、ほとんど何も理解していなかった。ただただ、脳をシミュレートすることで死が撲滅される、という「コピー」のアイデアに魅了されていただけだった。

大学に入って読みなおした時、ヒトの神経系全体とそこへの入力を作る肉体、そして環境をシミュレートすれば、外から見て元の人間と区別がつかない反応をするだろうということ、そして、本当に全く同じ系をシミュレートできるようになったなら、その系が「意識」を持っていけない理由はない、という発想をもう少しちゃんと咀嚼できるようになっていた。

脳の構造や何が意識にとって重要かなどはまだほとんど何も明らかになっていないので、どこまでの情報が必要で、それをどこまで再現できるかは不明だが、技術の発展に際限がなければ、シミュレーションを流すこと自体は最終的にやってやれないことはない気がする。千年後、一万年後になるかもしれないが。だが、侵襲・非侵襲を問わず、意識を途切れなく繋いで復活させるに十分な情報を肉体から抜き出せるかどうかはそれよりももう少し怪しい問題だと思う。

この小説では、他のイーガンの短編や長編ではあまり見られない、「コピー」の誕生過程に対する言及がある。とはいえ、それはなかば当然のように誕生しており、ある程度の意見の差(自分がコピーになって不死になるということへの哲学的な不安、反発を吐露する人々)はあれど、人々は彼らに意識があることをを受け容れているし、人格も連続していると見做されている。このあたりはまあ、SFらしい公理セットとして受け入れよう。そこを考えると話が進まないので。

ところで、これは脱線だが、「脳をシミュレーションすることでコンピュータの中で生きる」というアイデアへの反論として、「脳だけシミュレーションしても入力も出力もなければ意識は保ちようがない」のようなものを聞いたことがある(どこでだったかは覚えていない)。その主張は全くもって正しい。正しい主張なので、SF作品では最初から考慮済みだ。実際私も脳の神経系を虚空の中に浮かべて神経活動のない初期状態からシミュレーションを始めたときに何かが起きるとは思っていないし(そもそもそんな設定のシミュレーションは無意味すぎて頭をよぎりすらしない)、SF作家の大半も多分そう考えているだろう。そして、大抵それらを様々な形で考慮した上で話をしている。

脳のモデルが精密であればあるほど成功しそうなのに対して、肉体の側はある程度大雑把な(細胞レベルではなく、組織レベルかそれより上の)モデル化で事足りそうだというのは直感的には納得できる。むしろ肉体の束縛がなくなれば変な方向に腕を曲げられるようにしてみるといった拡張・改変を試してみたくもなるだろう。いきなり自分の腕が逆関節になったからと言って、人間並みの精神を永遠に持てなくなるとは思えない。そのうち慣れるから大丈夫だろうと思えるのではなかろうか。また、神経と接続した義手を使ったからといって(これは生理学的には人間の腕とかなり乖離しているが)、意識を失うとも思えない。沢山のメカニカルな機能を追加すれば便利にすらなりそうだ。

そのような場合、このシミュレーションを意識にとって最も重要な部位だと考えられている「脳のシミュレーション」と呼んでしまうのを何故責められよう。当然、「人体のシミュレーション」と呼んだほうが妥当ではあるのだろうが、身体の形態を変えられる可能性を前にして、それを「人体の」と呼ぶのが適切かどうかはあまりよくわからない。「人体とそれが居る環境ひっくるめた全体のシミュレーション」は長すぎる。実際、イーガンの作品の中で「コピー」は当初、外科手術用の生理学的人体モデルの上に実装され、標準的な「コピー」はその後もそれに似た肉体を纏って自分の家と周囲の道を模した3Dモデルの中で暮らしているが、他の作品では各々が好きな形態の肉体を纏っている描写がよく出てくる。

本題に戻ろう。脳のシミュレーションによって意識を持つ存在が誕生するところまでが、『順列都市』を成立させる仮定だ。だからここでも、そこには到達できるということにして話を進める。もしそこまでたどり着いたなら、シミュレーションの特性ゆえ時間も状態も離散化されていると思われる。よって、意識が有限回のステップで有限の長さの数値の列が変わっていくプロセスから生じているということになる。それだけでも、突き付けられると普通は少し躊躇してしまうような状態になってきているのだが、イーガンはそこで迷いなくもう一歩踏み込み、そこからさらに何が起きるかを考え始める。

まず、コンピュータの計算性能はこの状態遷移を外から見た時の時間スケールにしか影響しないはずで、次に出てくる状態を変えはしない。なので、状態遷移にどれだけの時間がかかろうと、それはシミュレートされている意識とは無関係だ。計算されている本人にとっての1秒分の状態変化を計算するのに必要な時間が1日でも千年でも、計算されている本人の主観では全く同じ1秒になる。さらに話を先へ進めよう。状態は何らかの数値の列になっているはずだが、この数値の列はメモリ上でどのように格納されていてもいいはずだ。プログラムがどの値がどこに格納されているかを知っている限り。それが地理的に隔たっていることは何の障害にもならない。せいぜいで計算が遅くなるだけだ。なので、宇宙中に散らばったメモリの間で通信して千年に一度計算を行ったとしても、当人がそれに気づくことはない。位置が関係ないどころか、計算の毎ステップで数値をコピーして別の場所に保存しても、シミュレーションには影響がないはずだ。まだ先へ進める。以上の計算は、どのような回路を持つプロセッサでどのような実装がされたとしても、数値誤差以外の差は生まれないはずで(実際にはこれほど複雑なプロセスが誤差に対して十分ロバストだとはあまり思えないが)、それは当人にとってどのようなプロセスで次の状態が現れていても意識を持つかどうかには関係がないということを意味している。

この時点で既に、少し背筋が冷える想像が可能になる。世界中にあるHDD、SSD、メモリ上にある数字を適宜組み合わせることで、ちょうど同じ意識の列になる可能性がありはしないかと。恐らく脳と肉体のモデルと環境のモデルの状態を十分な正確さで表現するのに必要なビット数はかなりの量になるはずで、その長さのビット列が持ちえる範囲は凄まじく広い。だから直感的には、そんな都合の良いことは起きないように思えるだろう。だが、どういう順序でどこに配置しても影響がないからには、1bitずつバラバラの順番で、別のメモリ領域、別のハードウェアに保存しても構わないはずだ。すると、必要な量の0と1があれば、正しく選んで並べることによって意識のプロセスと全く同一のプロセスが現れることになる。何人分でも、どんな入出力でも。そうなると必要なビット数は激減する。1TBの任意のデータを作るのに、最大でも1TBをゼロ埋めできる量の0と、1で埋められる量の1で事足りる。よく暗号化されているデータを2TBも集めてくれば十分だろう。世界中からなら余裕で集めてこれる量だ。

これは、意識以外のプロセスやデータに対してはナンセンスな議論になるだろう。HDD内のビットを並べ替えればどんなものでも、例えばこの世のものとは思えない美しさの絵画、心を芯から震わせる音楽、のめり込んで帰ってこれなくなる小説、現実と見紛う体験を与えるゲーム、片思いの人の写真、宇宙の最も根源的な方程式を母語で解説した論文がいくらでも手に入るというのは事実だが、そんな並べ替え方がわからない以上、それを我々が目にすることはない。なのでこんな話には何の意味もない。だが意識を芽生えさせる状態遷移ならばどうか。「本人」にとって、どういうプロセスでどこにどんな順序で値が生じているかが問題にならないなら、完全にランダムなビット列の状態遷移を慎重に渡り歩くことで自分が発生するとして、それで何か問題があるだろうか。因果関係も、拾い上げるビット間の距離と計算にかかる最低限の時間だけ待ってから次の状態を拾い出すことでエミュレートできる。――ならば今も、世界中のマシンの上のビットの中に、いや宇宙中の粒子の、ビットパターンとみなせる配置の中に、沢山の人々のありえた人生が塵になってばらまかれて、私達には復元不可能な順列の中に眠っていてはいけない理由が、何かあるだろうか。

塵理論は概ね上記のような発想だ。ここからさらに、イーガンは遷移の順序すらランダムにしてしまう。そうすれば、無限を阻むものは何一つなくなる。そのあとで主人公ダラムは、意識を持つ存在を擁する無限に拡張していくコンピュータをモデル化し、それを走らせはじめて即終了する。残りの時間発展は、中にいる「コピー」が全ての時空間の中から自分の次の状態を勝手に見出すはずだからだ。劇中で「発進」と呼ばれているこのプロセスは、実際には必要ないと思う。そういう順列がありえるなら、既にあるはずだ。それでも心情的には、その順列の存在を確実にしたいという気持ちはよくわかる。作中では人間の死はもっと大きなパターンに織り込まれて意味をなすものの、発進が途中で止まることには理由がないと語られていたが、私はこれは少し微妙だと感じた。発進のプロセス全体が世界のどこかで行われている以上、より大きなパターン(この世界)の一部であることは同じだし、その上、その「より大きなパターン」の一部であるダラムによって資金的に不可能だから停止される、という立派な理由があるのにこの主張は通らないのではないか。まあそれは関係ない。どちらにせよ、そのような順列が構成できるなら、そのような順列の中に埋め込まれた意識は存在できる。そうして発進した順列都市、「エリュシオン」が後半の舞台だ。

このようなことを再読して理解した時の気持ちは筆舌に尽くしがたい。大まかな構成要素は、理解したという喜びと発想への感嘆、そしてそれが意味するところへの恐れなどだろう。そこを理解してしまってからの周回は、心安らかに普通の小説を楽しむように読めた。これで概ねこの小説は味わい切ったと思った。

ところが、この前人に貸していた順列都市が手元に戻ってきたので再読してみたところ、エリュシオンが決定論的に時間発展することが意識に登り、また少し恐ろしく感じてしまった。エリュシオンを支える計算基盤は自己複製する万能チューリングマシンを擁するセルオートマトンで、それが無限に成長していくことがエリュシオンにとって重要なことだ。有限の大きさで都市を支える計算能力の成長が止まるなら、その系は有限の状態しか持つことはない。すると、永遠の時間の中では必ず全く同じ状態を何度も訪れることになってしまい、永遠の人生には何の意味もなくなる。永遠の人生は、永遠に異なる状態を取れる、つまり無限の状態が約束されているからこそ意味があるのだ。そうでないなら、一度の人生をそれと知らずリプレイしているのと変わらない。

だが……彼らは怖くないのだろうか、自分たちの意識が完全に決定論的であると知っていて? 無限の状態が約束されていることは、意識が決定論的であることのまごうことなき証明がされてしまうことと相殺されるだろうか。おそらく、自分の次の状態を決めるための一番簡潔で高速な方法は、自分が実際に状態遷移をすることだろう。その意味では、実際に何かがすでに「決まっている」ということはない。だが、それが自分の一挙手一投足がすでに、言葉のかなり広い意味で、「決定済み」であることの慰めになるだろうか? そういうことを何故か突然、今までになかったほどの実感を伴って考えてしまい、恐ろしくなった。

そしてそういうことを考えてから「百光年ダイアリー」を読むと、以前読んだ時よりもずっと楽しめた。今はあまりよくわからなかった小説も、しばらくして読み返せばより面白く感じるのかもしれない。物語を読み直して初見の時より面白く感じたことはよくある。今回のように理由がはっきりしているものもあれば、まるで理由がわからないままわかるようになっているものもある。もしあなたが以前あまり面白いとは感じなかった小説があるのなら、これを機会に読み直してみてはいかがだろうか。