今日、外に出ると晩夏の匂いがした。湿気と、草木と、熱気の残り香。夏が終わりかけていることと、それでもまだ夏であるということが、アパートの廊下の外を見るまでもなくわかった。外を歩きながら、今年の夏が殆ど夏らしいことができないまま終わろうとしていることにちょっとした焦りを覚えつつ、これまでの夏にした「夏らしいこと」について思いを馳せていた。

数年前、瀬戸内海のある島に旅行したことを思い出す。とても暑い日だった。一周するのに徒歩でも数時間という小さい島だったというのに、てっぺんまで登っただけで汗だくになってしまっていた。非常に理想的な形をした島だったので、展望台からは360度海が見え、対岸の中国地方の沿岸部や、遠くにある他の島、その間を行き来する船などもよく見えた。その時のことはよく覚えている。

当時、簡単な物理シミュレーションが書けるようになった頃で、なので自分の持っているそこそこのスペックのノートPCでどのくらいの規模の系を計算できるかがある程度わかってきていた。眼下に広がる海の規模が、乗ってきた船の規模を足がかりに把握できる。その表面に立つさざなみが、それに反射してきらめく光が、どれほどの規模なのかがわかってくる。そのスケール感についての直感が突如湧き上がってきて、しばし圧倒されていた。たまにしかないことだが、本気で、心の底から自然界に対しての畏敬の念を覚えていた。

思えば、その光景を私が認識するまでのパスウェイの方が小さいながらもよっぽど複雑で、そちらの方がある意味では驚嘆すべきことだったのかもしれない。しかし、そういった諸々を吹き飛ばすだけの物量がその景色には含意されていた。単純な距離や広がりを超えた、世界の本当の意味での広さのようなものが感じられた気がした。もちろん人類はまだミクロスケールの全てを解明したわけではないし(もちろん私は現時点での最先端は理解していない)、そもそもそこに単純な答えがあるかどうかすらわからないのだが、人類が、いや私がある程度自信を持っているレイヤーだけから見ても、世界は凄まじく広大だ。

その後も、そんな気持ちになることがある。山に登ったり海に行ったりしなくても、単に川辺を散歩している時にも、それどころかベンチでふと上を見上げただけでも、この感覚が襲ってくる。光子が大量に飛んできて、膨大な数の水分子にぶつかり、たまに電子を励起させたりしつつ私の目まで飛んでくる。「複雑ではない、ただ数が多いだけ」と言ったのはFeynmanだったか。数が多いだけでも、人を圧倒することはある。

自然を理解することで自然への畏敬の念が減ずる、というのはよく反駁されるべき言説として登場するし、私もこれは間違っていると思う。理解し、作ろうとして始めて、自分が何に相対していたのかがわかってくる。実際、あれほどの恐ろしさを感じたことはそれまでの人生でなかった。当たり前に過ごしていた日常の裏側で何が起きていたか、という認識の転換。人生でそう何回もできないだろう経験の一つが、あの瞬間だったろう。他にも何かの現象の感覚を掴んでものの見方が変わったことはあるが、その中でもあれは特異な例だったように思う。かなり初等的な物理しか想定せずとも、認識はああも変わるのだ。

今日もコップの中の珈琲に、木の葉の影の中に、浮かぶ雲にそれを見る。まだ手の届かない世界にため息をつきながら。