記憶の中の場所

技術記事ではない。

そんなに長く生きてきたつもりもないのだが、縁のある場所の多くがすでに存在しなくなってしまっている。人と話している時に気づいたのだが、私はどうも「思い出の場所」のようなものの大半をすでに失っているようだ。まず、一家で引越しを繰り返して来たので固定された「実家」というものがない。住宅自体は残っているだろうが、かつて過ごした家は全て、今入ると不法侵入だ。それなりに滞在した祖父母の家も、どちらもすでに他人の手に渡っている。まだ残っているとは思うが、厳密には今はもう存在するのかすら定かでない。

通っていた保育園は私が小学生の頃に一度解体されて完全に建て替えられてしまったし、中高でほとんどの時間を過ごした武道館と部室棟、それから中学の教室棟は私が卒業するタイミングで改修されてしまった。卒業してすぐの頃に訪ねた時は、「いいじゃん、綺麗になったな」というような感想しか抱かなかったのが、数年経って訪ねてみると喪失感が少し疼いた。これは見かけだけの問題ではなくて、当時「新校舎」「旧校舎」と読んでいた言葉も置き換わるんだろうなと思うと、そこにあった文化全体が失われたように感じてしまう。中高の頃通学に使っていた駅すら私が卒業するのを待っていたかのようなタイミングで工事が始まり、少し前に車窓から見た限りでは様変わりしていた。どうせなら通学中に改修してくれればまだしも便利になったのにな、と思ったことを覚えている。

大学の周囲の景色も今思えば入学当初とはかなり違ってきている。多くの店が入れ替わり、大学自体の空気すらも少し変わった。街というのは、ずっと同じ姿でいるような顔をしておきながら、少しずつ着実に変化を重ね、気づいた時にはこちらを置き去りにしてしまう。今ではお気に入りになった作家の本を棚の隅に初めて見つけた風変わりな本屋も、古めかしい雰囲気を残した店員の距離感が近過ぎる飲み屋も、あの日時間を潰すために入ったファストフード店すらなくなっている。あの日歩いた場所はもうここにはない、それどころかもうどこにもないのだと思うと、突然景色が索漠として見えてくる。

季節の変わり目はどうも、その季節のど真ん中よりも五感で季節を感じることが多いような気がする。思い返した時に映えるのはその季節の真っ盛りの時期だが、たとえば夏の香りを嗅ぐのは決まって初夏ではないだろうか。季節の変わり目の空気は、意識の外から突然その季節の感覚を叩き込んでくる。防御する暇もなく想起が始まる。そして何を思い出したとしても寂寥感に苛まれる。昔のことを思い出すのはあまり好きになれない。

ところで触れてこなかったが小学校はどうかというと、こちらは特にどうにかなったという話は聞こえてこない。なのでこちらは概ね当時のままの姿で留まっているのではないかと思う。だが、考えてみれば、私はすでにあの小学校とはなんの関わりもない人間になってしまっている。小学生ではないし、あの街にはもう家もない。住民票もない。なので選挙で訪れるということもない。そこで思ったのだが、卒業生を名乗る人間がホイホイ入れるほど小学校のセキュリティというのは甘いものだろうか。私はそうは思わない。というか私が小学校の関係者なら、面倒だから入れたくないと考えるだろう。人様の子供を預かる責任は重い。万一のことを考えて、色々理由をつけて丁重に断るのではないか。

ということは、最早通っていた小学校がまだ存在しているとかしていないとかいう話ではなく、あの小学校を再訪することは不可能なのだ。雨が降っていたあの日に絵の具の筆入れを洗ったあの手洗い場も、息を潜めて隠れた半分物置のような屋上へ続く階段も、信じられないくらいフニャフニャなあのサッカーボールを蹴ったグラウンドも、すでに私の手の届くところにはない。まだ現役でいるにも関わらず、あの小学校はすでに、私にとっては、記憶の中にしか存在していない場所になってしまった。

また一つ歳をとった。時間が過ぎるごとに昔の記憶は薄れていく。細部を鮮明に焼きなおすことができなくなった「記憶の中にしかない場所」たちは、これからどんどんぼやけていくのだろう。ぼやけていく途中の段階が一番心にくる。いっそ、ぼやけてきていることを感じさせないまま忘れ去ってしまえた方が、いちいち喪失感を覚えなくていい分楽になるのではないだろうか。