記憶と夢とストリートビュー

技術記事ではない。


知人と、互いが昔住んでいた町をグーグルストリートビューで見ながら紹介するという遊びをした。ここを曲がると昔よく遊んだ公園があって、ここを曲がると帰り道で寄っていたお店が……。なくなっていた店もあったし、改装で様変わりした建物もあったが、懐かしさが消えるわけでもない。ストリートビューの画像の切れ目にできる僅かな歪みを指摘して茶化しながら当時の生活を思い出し、検索ボックスに住所を入力してエンターを押せば瞬時に県を跨げる時代に少し感動を覚えてもいた。

あの町に住んでいた頃、携帯端末はブザーか数字を送るので精一杯だった。そののち、私の成長と共に端末は形を変え、複雑な音声信号を送れるようになり、画像が、動画が、webページが、届くようになっていった。そんな頃を思い出しながら道の途中で立ち止まり、カーソルを動かして周囲を見回していると、嫌でもその変貌ぶりを意識させられる。

変わるのは技術だけではない。多くの建物がなくなって、また新しくなっている。多くの人が出て行って、別の人が住みついただろう。データも同じだ。当時見ていたウェブサイトの多くが消えた。当時は存在しなかったデータが信じられないほど拡充している横で、以前私を楽しませてくれたデータが知らないうちに流れ去っている。きっかけがあれば記憶は呼び覚ませるもので、特に印象深くもなかったはずの出来事が断片的に脳裏に浮かび上がっては消えた。

その夜、風呂に入りながらその日あったことを反芻していると、自分が昔住んでいた町をまさに訪れたように感じていることに気付いた。自分の足で歩き、見、時には触れ、その町の空気を嗅いだかのような記憶に編集されている。いくらよく歩いた道で周囲の3次元的なモデルが頭の中にあるといっても、それは単純すぎるだろうと自分で自分が可笑しかった。ストリートビューの平面的なテクスチャが記憶に貼り付けられて、本物のような密度の記憶を作っている。しばらくはあの町を訪れなくても、昨日行ってきたかのように話ができるぞ、と一人で笑っていた(実際にはストリートビューは昨年に撮影されているのだが)。

翌日のことだ。何か非常にリアルな夢を見たのでその内容を思い返そうとしてみると、非常に具体的な町の様子を見ているらしい。存在しない町を訪れる夢は何度も見たことがあるが、景色の破綻のなさから、直感して訪れたことのある町だと結論づけた。しかし思い出そうとしても町の名前が出てこない。いくつかのシーンをちぎれ飛んでいく夢の欠片から拾い上げて、ようやく気付いた。それは昨日ストリートビュー越しに見た知人の故郷だった。

それに気付いてからは意識的にその場所が思い出されていく。駅からの道筋、公園の横の坂道、頭上にかかる高圧電線、全てが異様なリアリティを持っている。自分の足で訪れたかのようだ。もちろんその町を訪れたことはない。しかし驚いたことに、その場を歩いたかのような記憶がある。ストリートビューでは離散的にしか取れなかったはずの自分の位置が補間され、途中の位置からの景色が挿入されている。当然なかったはずの触感や、ガードレールの鉄の匂い、側溝の水音、雑木林の草いきれが脳裏に浮かぶ。

一番驚かされたことは、グーグルストリートビューからの景色を意識的に思い出せることだった。そこと別の領域に、リファインされた景色が入っている。ストリートビューにはあった景色の歪みが含まれる画像と含まれない景色を思い出せることが決定的だった。どのように格納されているか知らないが、ストリートビュー由来の景色の特徴を抽出して非可逆に圧縮し、想起の過程をフックして質感を追加しているわけではない。ストリートビューの画像からその土地のモデルが形成されて、他の町と同じような領域に格納されている。歩きまわったのと同じように。一晩寝ただけで。

知人の故郷は普通の町だった。よくある大都会でもなく田舎でもない普通の町。基本的な構成要素は私の見たことのあるものがほとんどだった。珍しい南国の樹が植わっているわけでもなく、特殊な文化由来の異国情緒あふれる町並みでもない、普通の日本の町だった。だからこそ私の脳はそこに“ありそうな質感”を付与できたのだろう。私が寝ている間に、記憶が読み込まれ、編集され、カテゴリに分けられて仕舞われていた。自分の身体を完全に制御できていないことを思い知らされる。と同時に、脳が「私」に断りなく行っていた蛮行を一つ暴いたような気がして少し溜飲が下がった。

その日普段の通り道を歩いていると、少し薄ら寒くなったことを白状せねばなるまい。私は普段歩いている道を五感全てで感じていると信じているが、少なくとも私の長期記憶にはそれはさほど重要ではないようだ。私はグーグルストリートビューから得られる程度の情報からでも、この道について持っている長期記憶と同程度の密度の情報を構築できる。もちろんそれには生の感触が大量に必要であって、それはこれまでの私の人生で歩いた道から得られたものなのだが、しかし既に「よくある町」のデータセットは揃ってしまった。この道の記憶は、どの程度再構築されたもので、どの程度が生の記憶なのだろう? 区別できるものだとは思っていないが、それでも気味の悪さは完全には拭えない。自分の記憶を完全には制御できていないという恐怖、とまではいかないものの、違和感、引っ掛かりのようなものは、喉に刺さった小骨のように、足の裏に付いた米粒のように、脳裏から離れることはなかった。

特殊な記憶能力でもない限り、自分の人生で起こったことを全て覚えておくことはできない。記憶は消え、また編集される。一瞬の間は自分がしていることを覚えていられるが、しばらく経つと短期間の記憶は消化され、非常に短くまとまってどこか奥に消えていく。私は二人いるのだ。短期的に自分のしていることを完全に覚えている自分と、より長いスケールで大雑把にしか捉えられていない自分。思い出そうとしても細かいことは正確には思い出せない。思い出せたとしても、編集された結果かも知れない。区別はつかないだろう。短期的な自分が現れては消えていく。それに従って、長期的なスケールの自分がその遺体を拾い上げて解剖し、少しばかりの情報を取り出して、取って代わる。「私」にとっての自分は、短期的なこの瞬間の自分が思い出して自己同一性の拠り所にできる自分は、長期的なスケールの方の自分でしかあり得ない。

当たり前のことなのだが、それを直視すると恐ろしい。自己同一性のほとんど唯一の拠り所のはずの記憶が、「私」にはわからない形で、捻じ曲げられ、消えていっているのだから。