路地

 路地が好きだ。

 元々人が多い所が苦手だからなのかもしれない。しかしそれ以上に、 少し狭く入り組んだ道には何かしら魅力があるように思う。日常的に使っている道や人が多く行き交う主要な道路の脇にひっそりと口を開けている路地は、黙っていても不思議と人をその奥へ誘う。

 路地にも色々ある。太い主要な道路から一本奥に入った普段あまり通らない道、というだけでも、ある程度の路地性がある。それは小さな非日常で、適度な不安と新しい景色、ささやかな冒険を与えてくれるのだ。これは路地の魅力のかなり根本に位置する部分であるように思う。遠くへ旅に出るまでもなく、見知らぬ土地は我々が普段何気なく通り過ぎている道の脇の盲点に、ただ黙って待ち構えている。

 より路地らしくなる条件には、狭さがあるだろう。路地は狭いものだ。車は通れないくらいの狭さがいい。むろん一台くらいなら車も通れるような道にも路地性は十分にあるが、狭い方がより路地らしさがある。狭さはそれだけで奥への進攻を阻む。明確な障害物がなくとも、狭さだけで人を少し遠ざけることができる。そこから想起されるのは、その奥へ進む人の少なさであり、未知の領域への興味である。多くの人が訪れる場所への道はもっと整備されていてしかるべきで、それがなされていないということはあまり人が行かないような場所へ通じているのだろうと思われる。これは冒険心や好奇心を適切にくすぐってくる。

 同様の要素に、舗装されていないこと、あるいは舗装が少し崩れていてその隙間から雑草などが生えていることなどがある。これらはより直接的にその奥に人があまり行かないことを意味している。大きな石や枯れてしまった木なんかもそうだ。また、折れ曲がっていて先が見えないことは道の先への期待を増幅するし、階段や立体的な交差のような三次元的な入り組み方も、冒険心を刺激する。

 

 あまり人が行かない場所というものは、未知の領域への冒険心と共に、何か別の期待も抱かせる。それはそこが神聖な場所かもしれないという期待であり、何かの意味で重要で、しかしもしかしたら忘れられた場所かもしれないというものである。

 昔は人がいた痕跡がありながら人が来なくなっている場所には、独特の雰囲気がある。例えば、朽ちた社に苔むした石像のようなものにはその雰囲気がある。その雰囲気はとても微妙なもので、しかし確かに何かの期待をこちらに抱かせる。

 朽ちかけている人工物の雰囲気は非常に好きだ。これは日をあらためてゆっくり考えたい。路地には他の魅力もある。しかし間違いなくこの種の魅力もある。

 

 路地に廃墟とは別種の魅力があることは明らかだ。家屋に収まりきらず路地へはみ出してくる生活感も、路地らしさの一つの要素だからだ。少し泥のついた自転車や、年季の入った植木鉢、壁から突き出したボイラーの排気口、積み上がった瓶ケース、風に揺れる洗濯物。こういった小道具は路地に間違いなく人が息づいていることを示していて、そこに廃墟との相違がある。しかしそれもまた路地の魅力で、特徴的な魅力でもあるだろう。

 小さいころ、ゲームのマップの端に行っては先に進めないことにもどかしい思いをしていた記憶がある。あの頃のゲームの世界は非常に不思議な世界で、描写されていながらその外見以上の実在性は持たない部分というものがある。世界は切り取られていて、主人公とストーリーにとって必要な部分しか存在していない。連続した、首尾一貫した世界のように見えるのは、世界の細部が外見だけ辻褄を合わせているからというだけで、世界自身は継ぎ接ぎでしかない。

 この世界において、路地はとても「細部」である。通勤通学に使う道でもなければ、行かねばならない店や知人の家があったりもしない。どこかの路地がある日突然存在することに疲れて外見だけ辻褄を合わせて消えていたとしても、私はしばらく気づかずに日々を過ごしていくだろう。そんな路地へずんずんと割り込んで行ってその細部に目を向け、そしてそこにも生活が営まれているのを見ることは、もしかすると世界が首尾一貫していることの確認行為なのかもしれない。私は首尾一貫しているものが好きで、また食い入るように眺めても細部が抜け落ちることのないものが好きだ。ゲームのマップもシームレスに繋がっている方がいい。世界は私の主観によって生成されるのでなく、超然として私のことなど目もくれずに全体に渡って存在し続けてほしい。

 私が見ていない間も世界は動いている。路地はそう思わせてくれる。


2018/8/1 移行

透明

 夏が来ると、鉱物を見たくなる。

 この衝動がどこから来るのかは知らない。あの液体の時間を止めて一つ所に閉じ込めたかのような涼しげな外見が暑い日常からの逃げ場に見えるのかもしれないし、小さい頃に海で拾った磨耗してちんまりと丸くなったガラス瓶の欠片を思い出すからかもしれない。私の場合、夏休みに鉱物展などを覗きに行った記憶のためかもしれない。

 なんにせよ、透明感のあるものがよい。鉱物はその多くが透明だ。透明感は涼しさや冷たさ、硬さや高音、ぴんと張り詰めた力のような感覚とリンクしている。それは水の冷たさであり、氷の硬さと響く音、砕け散るときの力学、ひいては光への畏怖なのかもしれない。冷たさは、我々の肌に打ち付けてくる微細な氷の結晶の持つ刺々しい拒絶の感情を、硬さは容易には侵入や破壊を許さない拒絶の意思を思い起こさせる。

 鉱物の透明感は純粋な透明感だ。付随する刺すような冷たさは感じさせない。時に手を蝕み、痛みすら感じさせる攻撃的な冷たさは無く、ただ心地よくひんやりとしている。その全くこちらのことなど気にかけていない、周囲のことを知ろうとすら考えていないかのような冷淡さに、魅力と安心感を得るのである。無関心さは不可侵性や永遠性のような泰然自若な気配を帯び、存在してきた年月の重み、これからも変わらずにあり続けるであろう未来の果てしなさをその奥に垣間見せる。他の物体が擦り切れ、あるいは流れ去り、燃え尽きる中で、それらの営みをまるで無視するかのような堅牢さと、磨耗するどころかむしろ鋭く結晶化していく逆方向への成長は、蓄えられたエネルギーや神性すらも意味している。

 透明。私の好きなものだ。奥にある情報を遮ることなく、そこにほんの少しだけ自身が存在した徴を付ける。その謙虚さと無関心さが私は好きだ。邪魔することはせず、ただし存在の痕は残す。不透明さは先の見えなさや不確実さ、ひいては擾乱に繋がるので私は好きではない。不透明なものは具体的なもの、日常の雑事、卑近な問題に繋がっているような気がして、私にとって好ましいものではないのだ。透明感の持つ自由さや力、鋭く高速な澄み渡った思考のイメージに対して、不透明さはその奥にあるものを覆い隠してしまう壁であり、仕組みを知りたかった私にとっては憎き邪魔者なのだった。

 小さい頃、宇宙と真空の話を聞いたときに、真空が黒いというのも不思議な話だと思ったのを覚えている。当時の私は色というのは何かがあって生じるものであり、黒も他と同列な色であるのだから、黒く見えるのも何かがあるからこそなのだと思っていたのである。すべての色がそこに何かあるために生じるものと考えていたのだから、黒だけ特別というのもおかしな話だったに違いない。

 幼い私はまだ見ぬ真空を夢想していた。向こう側に何もない、ただ茫漠たる透明な海に思いを馳せ、それはどんな風に見えるのだろうと考えていたのだった。


2018/8/1 移行・"鉱石"を"鉱物"へ修正(個人的には響きは鉱石の方が好みだが)