計算行為と物理の話

先日大学で開かれていたセミナーに出席していたのだが、非常にわかりやすく面白く、楽しい時間を過ごすことができた。そこで聞いた話から思い出したことがあった。

かの有名なD-Waveは、超伝導状態にある閉回路を電流がどちら周りに回っているかを各ノードの状態として、その回路間に上手く相互作用を持たせ、その結果出てくる(結合荷重を設定した)イジングモデルのエネルギー最適化を行うものだ、という説明がなされた。「最も高速に動作する物理モデルは自然そのものだ」とも聞いた。それが常に成り立つというのは置いておいて(実際、不要な細部を削ぎ落とすことで必要な情報を(誤差を含むとしても)現実の系よりも早く計算することはモデルの立て方と欲しい情報や誤差の選び方によっては不可能ではないだろうが、そういうことが言いたいのでないのもわかってはいる)、この「計算によって物理モデルの振る舞いを模倣するのではなく、自然そのものを自分に取って欲しい形にする」という発想には、以前にも出会った記憶があった。まだうっすらと印象に残っている。

2年かそれ以上前、まだプログラミングはできなかった頃に、何か計算的に面倒な問題--確か固有値問題か何かだったと思うのだが--を、数値計算で解くのではなく、系の振る舞いがその解を体現するような物理的系を現実に作り出して観測することによって解く、という試みの話を聞いて「凄く特異なことをしているな」と思った記憶がある。少し考えた後、逆に数値計算で解く方が凄いことをしているのではないかという気がし始めた。計算行為とは全て、「その振る舞いが解を体現するようになっている物理的系を現実に作り出して振る舞いを観察する」ことではないか、と思ったのだ。コンピュータを使ってする計算もそうだし、我々が頭の中でする計算もそうだし、ビリヤードボールコンピュータもそうだ。電子と半導体を使うか、有機小分子とイオンを使うか、ビリヤードボールとキューを使うかの差でしかない。あとは現象の解釈の方法か。

この頃から、計算行為とは何か、何らかの意味で計算行為でないものはあるのか、それとも計算になるような形に解釈しているだけなのか、それは人間の現実認識の方法によるものなのか、というようなことが頭の隅に引っかかり続けている。人間がそういう形でしか周囲のことを認識できないので自然が計算行為の上にできているように見えるのか、はたまた計算というものを広くとらえすぎているのか。

今は何となく、計算行為でないものは、少なくとも自分に認識できる範囲にはないと、多少「計算」を拡大解釈した気持ちで捉えている。そうして、例えば頭上を飛んでいる雲の中で、空気の分子がたまたま非常に複雑なビリヤードボールコンピュータとして解釈すると途方もなく複雑な情報処理をしており、何か思索に耽っているように解釈できるかもしれない、などと想像したりする。そういう風に存在するのも悪くないと思うのは、やはり私の認識に依存しすぎているのだろうけれど。