本当は何を聴いているのか

 電車に乗っているとき、たまに音楽を聴いていたりもする。  私の場合、普段聴く音楽はそうほいほい変わるものではない(CDを買う金銭的余裕がないというのが大きいのだが……)。もちろんプレイヤーの中に入っているのは既に何回聴いたかわからないようなものばかりである。しかしこの前電車内で音楽を聴きながら本を読んでいるとき、ふと自分の耳元で耳慣れない音楽が流れていることに気づいた。しばらくそちらに集中していると、10秒もしないうちに、それが聴いたことのある曲に変わった。変わったというよりは、それが見知った曲であるということに私が気づいたのである。

 実はこの現象はそう珍しいことではない。私はイヤホンで音楽を聴くとき、周囲の雑音と同程度の音量で聴くようにしているので、外を歩いているときや電車に乗っているときなど、別のことに集中していて、かつ周囲の雑音に音楽が埋もれがちなときによく起きる。実際に流れているはずの知っている曲と異なる曲に聴こえるというのはまだマシな方で、再生されているはずなのに全く何も聞こえないときもある。ところがこの手の現象では共通して、私がどんな曲が流れているかを知った瞬間、それまでが嘘のように何食わぬ顔で見慣れた旋律に姿を変えるのだ。

 この現象を認識したのがいつだったかはあまりよく覚えていない。ただ、そのときは不思議なような、妙に納得したような気持ちで、半分くらいしか驚いていなかった記憶はある。そのとき私はこの現象にこのような理由をつけた。あたかもイントロクイズ的な要領で一瞬自分が聴いている曲が何かわからなくなっていて、曲を長く聴くにつれ検索対象が絞られて行き、最終的にどの曲かわかったとき、感覚をその曲に関する記憶にフィットさせている、あるいは記憶が実際の感覚を補完しているのだと。しかしよく考えてみるとこの説明では色々とまずい部分が多い。聴き知った曲が異なる曲に聞こえる理由に説明がつかないし、違うように聞こえる曲から過去の私はどのようにして、その実体験を補完できるほどに濃密な記憶を作り出したというのだろう?

 なので私は読んでいた文庫本をポケットにしまい(音楽が耳に入っていることからわかるように、集中が切れたタイミングでもあった)、このことについてもう少し考えてみることにした。目的の駅まではまだ20分ほどあったし、帰りの電車だったのもあって少し疲れていて、ぼんやりと考え事をするのも悪くないと思ったのだ。

 まず、以前に聴いたときの記憶と今回の知覚のギャップはどこから来たのだろう。これは比較的容易く原因が思い浮かんだ。周囲の雑音——電車がレールの継ぎ目を跨ぐ音、周囲の人たちの話し声、車内放送などだ——によって、音楽はかなり聞こえづらくなっている。加えて、私は本を読んでいたので、少なくとも自覚できるレベルでは、BGMを完全に無視していた。これらの結果、自分の聴いている音楽が何であるかが少なくとも認識できていなかったこと、記憶と結びつかなかったこと、以前聴いたときよりも劣る体験になるということに説明がつく気がした。というのも、以前に同様のことがあったとき、私は音量を一時的に大きくして対応していたことを思い出したのだ。一度何の曲かわかってしまえば、雑音に混じってかすかに聞こえてくるだけの旋律から、記憶にあるイメージを呼び起こして十分音楽を聴いている気分になれる。これはなかなかエコかもしれない。更にもう一つの説明として、その曲の記憶というのは、様々な経験の複合体であり得るだろうとも思った。つまり、揺れる電車内で聴いた経験の他にも、静かな部屋でゆっくり聴いたときの経験、それもどの楽器にフォーカスしていたかで何パターンにも膨れ上がる経験の総和に近いものであり得る。そうなるとこれはもう一時に知覚できる経験の範囲を逸脱するのは当たり前で、静かな部屋で集中して聴いているときでもその密度を全面的には上回れないかもしれないとまで思えてくる。妄想に近い話で、実際にそのようなものであるかどうかはわからないが。

 そうすると気になるのは、私はあのわからなくなったときに一体何を聴いていたのだろうか、ということだ。数秒間聴いていたのに、私はその楽曲が何であるのか気づけなかった。他のことに集中しているならともかく……。あの音楽はどこから来たのだろう。はっきり言って私は、その曲が自分の聴き知った曲に変貌したとき、驚愕した。その二つの曲にはほとんど何の接点もなさそうに思えたからだ。意味が通りそうな、これまで経験して学習しているものに少しでも近いものを見いだそうと、私の脳は完全にはランダムでない雑音と完全に構造化された音楽の混合物の中に浮かんでは消える儚いパターンを、必死に抽出したのだろう。私は一体、雑音でコンタミしたインクのシミに等しい筈のキャンパスに、何を見て取ったのだろう?

 気になるのはそこだけではない。というより、そんなことよりも恐ろしいことがある。我々は普段、本当は何を聴いているのか、ということだ。何度も聴いた曲をもう一度聴いているとき、我々が聴いているのは、現実の知覚と自身の記憶と、どちらなのだろう? どの程度我々は、知覚の生データを、記憶にフィットさせようとするのだろう。どの程度我々は、知覚の生データから、記憶を修正していくのだろう。私にはわからない。

 人間の脳は混沌の中に沈んでいたパターンを、それが学習済みのパターンに合致するなら、引き上げてくることができる。空を眺めているとき、雲一つとっても、人によって見ている像は違うし、ロールシャッハ・テストなんかはよい例になるだろう。「人間は混沌の中に己の見たいものを見る」。同様に「聴きたいものを聴く」ことも可能だろう。パターンがありそうに見える対象に出会うと、我々はパターンを見いだそうと必死になる。そして言語として意識に上ってくるのは、いつも「私」の知らないところで処理された結果だけだ。少なくとも視覚では、無意識どころか網膜でもある程度の情報処理が行われている。「誰」も世界の生データを見ていない。

 もし「私」が実際には水槽の中に浮かんでいるとまではいかなかったとしても、そのミニチュア版である認識と現実のズレは、認識の至る所で生じうるだろう。我々はそんなふうにして、世界を作っているのである。


これは以前(もう3年になることに気付いて驚いた)書いた記事の一つである。内容は今も自分にとって重要なことだと感じるので、投稿日時を合わせて一緒に置いておくことにした。 特に手直しはしていない。過去に色々なところに書いたものも、まとめておいてもいいのかもしれない。