距離

 空を見上げるのが好きだ。

 物心ついた頃から空を見るが好きで、暇な時はほとんどいつも空を見ていた。小学校などは校庭で暇になることはよくある。そんなときは怒られない程度にしばしば空を見ていた。あのさっぱりした青色も好きだし、様々な表情を見せる雲も好きだ。

 今日も空を見ていた。青い空の中にふわりと浮かぶ雲を見ていたとき、ふとそこまでの距離に思い当たり、思わず足がすくんだ。単色の背景にふわりと浮かんでいる雲はこちらのスケール感を壊してくるが、あそこまで数kmから十数kmは離れている。あそこにもし人間がいたら、果たして私の目に見えるだろうか。今大きな雲から千切れた一欠片はどのくらいの大きさなのだろう。私の部屋? 大学の大講義室? グラウンドくらいか?

 縦方向の距離は感覚として掴みにくい。地上での10kmに対して、上空10000mのどれほど隔絶されていることか。ただただ空が広がるばかりであれば掴めなかったこの距離が、雲という実体が浮かぶことで手がかりを得て地上と同じ座標に引きずり込まれる。

 空は隔絶されているから空なのだ。空までの隔絶は距離ではなく、天と地の隔たりとして表されるべきものだ。地上の10kmはそこまで圧倒的な距離ではない。しかし天と地の間は、人間が走って埋められる程度の溝ではないはずだ。そこに地上と同じ距離を持ち込んでしまうことで、本来日常と切り離されていたはずの空が、自分の行動圏内のように感じられてしまう。そして天への畏怖を忘れそこに自分の尺度を当てはめようとしてしまい、足がすくむ。

 子供の頃よくやっていた遊びに、スケール感覚を失う遊びがあった。一人でする遊びである。夜寝る前、真っ暗な部屋で目を瞑って、壁に触れないようにし、廊下の明かりなどの方向性を感じさせるものを完全に排除する。そしてじっと待つ。すると、だんだんと体の感覚がおかしくなってくる。普段目で見ている時は、自分の体のそれぞれがどれくらいの長さか知っている。しかしその感覚が薄れてくる。周囲に世界はない。私は自分の体が回転しながら小さくなっていくように感じはじめ、とうとう指でつまめるサイズになったような気がしてくる。

 私はこの遊びが、怖いながらも好きだった。酩酊に近いのかもしれない、と思ったこともあったが、酒が飲める年齢になってからそうではないとわかった。あの独特の感覚をああすること以外で味わったことはない。方向や距離を感じさせる感覚入力を一切なくすことで、私の体は尺度を失う。大きさもないし、特別な向きもない。何もない。何もないからこそ、距離も方向も意味を持たない。  距離感覚や方向感覚から完全に解放されるのは、文字通り「天にも登る心地」なのかもしれない。だとしたら、それが不思議な心地よさを感じさせながらも、どこか恐ろしくて日常に帰りたくなる気持ちにはちゃんと説明がつく。  そんなことを考えながら歩く私の頭上を、轟音と共に飛行機が飛び去って行った。


201/8/1 移行