透明

 夏が来ると、鉱物を見たくなる。

 この衝動がどこから来るのかは知らない。あの液体の時間を止めて一つ所に閉じ込めたかのような涼しげな外見が暑い日常からの逃げ場に見えるのかもしれないし、小さい頃に海で拾った磨耗してちんまりと丸くなったガラス瓶の欠片を思い出すからかもしれない。私の場合、夏休みに鉱物展などを覗きに行った記憶のためかもしれない。

 なんにせよ、透明感のあるものがよい。鉱物はその多くが透明だ。透明感は涼しさや冷たさ、硬さや高音、ぴんと張り詰めた力のような感覚とリンクしている。それは水の冷たさであり、氷の硬さと響く音、砕け散るときの力学、ひいては光への畏怖なのかもしれない。冷たさは、我々の肌に打ち付けてくる微細な氷の結晶の持つ刺々しい拒絶の感情を、硬さは容易には侵入や破壊を許さない拒絶の意思を思い起こさせる。

 鉱物の透明感は純粋な透明感だ。付随する刺すような冷たさは感じさせない。時に手を蝕み、痛みすら感じさせる攻撃的な冷たさは無く、ただ心地よくひんやりとしている。その全くこちらのことなど気にかけていない、周囲のことを知ろうとすら考えていないかのような冷淡さに、魅力と安心感を得るのである。無関心さは不可侵性や永遠性のような泰然自若な気配を帯び、存在してきた年月の重み、これからも変わらずにあり続けるであろう未来の果てしなさをその奥に垣間見せる。他の物体が擦り切れ、あるいは流れ去り、燃え尽きる中で、それらの営みをまるで無視するかのような堅牢さと、磨耗するどころかむしろ鋭く結晶化していく逆方向への成長は、蓄えられたエネルギーや神性すらも意味している。

 透明。私の好きなものだ。奥にある情報を遮ることなく、そこにほんの少しだけ自身が存在した徴を付ける。その謙虚さと無関心さが私は好きだ。邪魔することはせず、ただし存在の痕は残す。不透明さは先の見えなさや不確実さ、ひいては擾乱に繋がるので私は好きではない。不透明なものは具体的なもの、日常の雑事、卑近な問題に繋がっているような気がして、私にとって好ましいものではないのだ。透明感の持つ自由さや力、鋭く高速な澄み渡った思考のイメージに対して、不透明さはその奥にあるものを覆い隠してしまう壁であり、仕組みを知りたかった私にとっては憎き邪魔者なのだった。

 小さい頃、宇宙と真空の話を聞いたときに、真空が黒いというのも不思議な話だと思ったのを覚えている。当時の私は色というのは何かがあって生じるものであり、黒も他と同列な色であるのだから、黒く見えるのも何かがあるからこそなのだと思っていたのである。すべての色がそこに何かあるために生じるものと考えていたのだから、黒だけ特別というのもおかしな話だったに違いない。

 幼い私はまだ見ぬ真空を夢想していた。向こう側に何もない、ただ茫漠たる透明な海に思いを馳せ、それはどんな風に見えるのだろうと考えていたのだった。


2018/8/1 移行・"鉱石"を"鉱物"へ修正(個人的には響きは鉱石の方が好みだが)